フラッショバックのシーンで映画酔い。
面白かっただけにわたしのこの体質がつくづく残念。

118歳のニモ。
ベットの中で人生の選択の分岐点に戻る。
そしてそれぞれの選択でまた分岐点が待ち受ける。
いったいいくつの彼を生きたのだろう。
どのニモが本当の人生だったかなんてどうでもよくなる。
彼にとってどれも本当のことだから。

本当のことは嘘だけど、本当の本当のことだけは本当だ。
なんて理屈をわたしは捏ね回し戸惑う。

戦争という国策も原発という国策も過去になればわかるものだ。
そこには戸惑う人と流される人がいる。
戸惑う人だけに人生の選択があるのかもしれない。
もちろんそれがいいのか悪いのかなんてわからない。
でも自分で選択したことは結果的にいいのではないか。
そこには相手や会社や国を責める人はいない。

両親が9歳で離婚。
父親につくか母親につくか。
その当時三人の女の子に声をかけられる。
15歳で恋をする。
恋もまた選択だ。
34歳のニモは父親になっている。
どの家族を生きたかったのだろう。
そして妄想という修復もいいものだ。
火星にまで行けちゃうんだから。

ミスター・ノーバディは最後まで泳げない。
溺れるニモに手を差し伸べたのは誰だったんだろう。
センスのいい不思議な映画だった。