つぶやきまりりん

群れない 慣れない 頼らない (堀文子)

2010年02月

モサ

モサは不登校。
妹ミサは優等生。
ミサは授業である詩の意味を質問される。

三好達治の雪を久しぶりに読んだ。
いつの頃だったかは忘れたけれどこの詩をちゃんと覚えていた。


太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。


「人が言葉を発する理由は、もやもやしたものを感じているからです。
もやもやしたものが言葉より前に存在しています。
これが意味です。
もやもやに対する視点と、もやもやを伝えたい対象がいない限り、言葉は生まれません。
そこに言葉があるのなら意味もある。
言葉が連なれば、たとえそれが詩であっても、ある種のストーリーができあがる、と私は考えます。

二人きりの兄弟。
この二人を見下ろしているのは神様。
人は古代から、自分を超越した視点を求めてきました。
自分では決して獲得できないであろう視点。
眠る二人に等しく降る雪は、憧れの気象なのです。」


弟と二人姉弟のわたし。
それぞれに平等という葛藤はなかったように思う。
三人の子供達はどうだっただろうか。

山崎ナオコーラさんはこの詩をファンタジーの中に取り込んだ。
この世の中を住みづらいと感じる人たちへの応援歌。

わたしもわたしの中のもやもやを表現したいなあ。
それぞれに受け止めてもらえるような言葉で。

阿修羅

調子にのっているときに現れる。
わたしを冷静に見ているもう一人のわたし。


「相手によって、引き出される自分は変わってくるだろう。
だから、その人の前で自然に引き出される自分が気に入ると、その人が好き、ということになるんじゃないか。」

「自分があんまり上品ぶっちゃう相手はやめておいたほうがいいぞ。
自分がつらくなる。」


相手に脅されるように言い寄られても受け入れも反撃もしない。
裏切られても追い詰めも追いかけもしない。
最近のわたしは相手に翻弄されないように引き出されないように構えている。
その代わりなのか気遣いやちょっとした優しさがうんとゆるんだ心に響く。
ありのままの自分でいられ感謝できるってことが居心地がいいってことなのかな。



興福寺の阿修羅はそれぞれが哀しい顔をしている。
正面で合掌している手は正面の顔のものではない。
中段で待機している手も上段で踊っているような手もいつも正面に来たがって鬩ぎあっている。

多重人格の患者のお話。
阿修羅と多重人格を結びつけるのが新鮮だった。
生きていられないぐらい哀しい出来事に出会えば人は記憶を消すために心を病み新しい人格が出現することも不思議ではない。
いっそすべての人格が消失して新しい人格で新たな一歩を踏み出せればいいけれど・・・。

阿修羅の前に立つと人それぞれにいろんな感情が湧き出す。
仏様と人の間のようで達観しているのでもなく諭すのでもない。
だからこそ衝かれたように惹かれもう一人のわたしの物語が生まれる。


玄侑 宗久 著


パレード

怖い。
だけどその関係が嫌いではない。
いつの間にかわたしも6人目の住人になっている。

原作(吉田修一 著)の空気感や皮膚感までもがまったく損なわれていない。
行定監督の人間関係の描き方とキャスティングがみごとだった。
さりげないセリフが時々引っかかる。
それが伏線であったり大切な想いだったりする。

どうしてパレードなんだろう。
永遠に続くことはないとわかっている。
一瞬だから輝けるのか。
パレードには傍観者が必要だ。
ちゃんと見ているしもちろん知っている。

わたしも少し歪んでいるから歪んでいるやさしさも卑屈さもなんだか愛しい。
それぞれが抱えているものをあえて詮索しない。
出入り自由の部屋。
嫌なら出て行くしかないし、いるなら笑っているしかない。
もちろん現実の方が善意に見せかけた悪意は渦巻いているのだけれど。





今日は2月23日富士山の日。
富士山に登ることはないけれど永遠の憧れ。
遠くからため息をついている。

どんぐりのお家

どんぐりのお家に行けた。
そして同じ建築家の滝のお家にも。

絵を見るのも好きだけど、それと同じぐらい美術館の建物が好き。
テレビで憧れてはいつもため息をついている。

大好きな一枚を見つけ絵葉書を買い旅先で殴り書きしてポストに投函する。
今日のお誕生日に間に合うかな。


F1000480

滝のお家(秋野不矩美術館 )では堀文子さんの絵がステキだった。
彼女の好奇心はすごい。
八十歳を過ぎて、ブルーポピーに会いにヒマラヤまで足を運んだそうだ(ヘリコプターとおんぶ)。

「わたし雨女だよ。」
「大丈夫、雨だとステキな滝が見えるんだから。」
ずっとなんだろうと思っていた。
生憎というか心掛けのいいお友達のおかげで富士山日和のお天気になり滝は見ることが出来なかったけれど・・・。



F1000486どんぐり

どんぐりのお家ねむの木美術館)はおとぎの国。
なんて力強いんだろう。
なんて根気があるんだろう。
なんて素直なんだろう。

母を想う切なさがわたしには痛かった。
もちろんみんながみんな絵の才能があるわけはない。
でも言葉に出来なくても体を動かすことが出来なくても表現することを知っている。
それを感じるだけで心が洗われる。

帰り道ツアーディレクターさんからばらばらの絵葉書が配られた。
何になるかは袋を開けてからのお楽しみ。
わたしはつとむくんのねこさんだった。
すごく嬉しかった。


食堂かたつむり

人は、いつも澄んだ気持ちでなんかいられない、と思う。
みんな、濁り具合の程度の差こそあれ、心の中を満たしているのは泥水だ。
どこかの国のお姫様にだって、本当に憶測だけれど人には言えない汚い言葉が頭をよぎる瞬間があるだろうし、牢獄で一生を過ごす死刑囚にだって、顕微鏡で何倍にも拡大しなきゃわからなくても、光に当たればキラッと輝く、宝石の欠片は存在すると思う。
だから私はその泥水をきれいに保つため、なるべく静かにしていようと決めた。
水の中で魚が動き回れば濁った泥水になってしまうけど、心を穏やかにしていれば、やがて泥水は下に沈み、上の方はきれいな水になる。
私はきれいな水でいたかった。



この文章をよんでわたしは小川糸さんが大好きになった。
おとぎ話のようなのに確信がたくさん入り込んでいる。
映画化になると知ったときかもめ食堂みたいな映画になると素敵だろうなあと願った。
声を失った設定なのでそれを手際いい料理でその分匂いが感じられればと思うけれど宣伝が先行すると二の足を踏んでしまう。
学生の頃に食物を勉強してトラウマもある。
実習で屠殺場に行ったことがある。
命を頂くことの壮絶な叫びにただ怖くて震えていた。

わたしは昔はどちらかというとお節介で八方美人の傾向があったのに、
いつしか距離をとることでややこしいことから回避するようになった。
相手が言葉にしなくても言わんとしていることが敏感に感じられてしまう。
いっそ悪態をついている人の方が擦り寄ってくる人よりもわかりやすい。

きれいな水でいることは難しい。
だからこそ波風を立てずにきれいな水のふりをしていよう。
なによりも心穏やかでいたいから。



まりりん
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